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【アニメ・マンガがアツい!練馬・中野・杉並・豊島を楽しむ!】としま国際アート・カルチャーフォーラム「浦沢直樹、手塚治虫を語る」が開催されました
2017年09月06日
『YAWARA!』『MONSTER』『20世紀少年』など、数多くの代表作をもつマンガ家・浦沢直樹先生が、マンガの神様・手塚治虫先生を語るトークイベントが、豊島区の自由学園明日館講堂で開催されました。
浦沢さんは、手塚先生の代表作『鉄腕アトム』の1エピソード「地上最大のロボット」を原作とした『PLUTO』(浦沢直樹×手塚治虫・長崎尚志プロデュース・監修/手塚眞・協力/手塚プロダクション)も手がけられています。
このフォーラムは、「国際アート・カルチャー都市としま2017《夏のとしまで楽しむマンガと文化財》」のクロージングイベントとして実施されたもの。
国の重要文化財に指定されている自由学園明日館の講堂が約3年間の修理作業を終えて落成したのを記念し、重要文化財と豊島区が誇るアニメ・マンガ文化がコラボレーションする企画イベントでもあります。
拍手に迎えられて壇上に登場した浦沢直樹さん。
「今日2017年8月20日は、『20世紀少年』の主人公・カンナが開催したフェスティバルに〈ケンヂが現れる〉と設定した日なんです。そんな記念すべき日に、こういう場で、尊敬する手塚治虫先生の話ができるという奇遇。集まった皆さんに、良いものが残せるようにおしゃべりさせて下さい。よろしくお願いします」と挨拶。さっそくトークへと移ります。
4歳のころ、母親が仕事に出ていたため、祖父母に預けられたも同然だったという浦沢さん。そこに置いてあった『鉄腕アトム』と『ジャングル大帝』の2冊のマンガ単行本が、手塚治虫作品との出会いだったそうです。
その2冊を暗記するほど読み込み、小学校に入る前には「手塚先生の絵をバッチリ描いて、手塚治虫ってサインを入れるほど」になっていたとか。
TVアニメ『鉄腕アトム』もちょうどその頃放送されていて、アトムは空気のように当たり前の存在だったと話す浦沢さん。そのため、1966年の大晦日に放送された最終回「地球最大の冒険」では、「人生初の別れを経験しました」と語ります。
手塚先生は戦時中、何千枚というマンガを描き貯めていました。終戦後、「少国民新聞」(現・毎日小学生新聞)大阪版で4コママンガ『マアチャンの日記帳』の連載でマンガ家としてデビュー。その後も数紙で4コママンガを掲載。
そして1947年、『新寶島』(新宝島)で長篇デビューを果たします。当時主流になりつつあった赤本漫画(書店ではなく、駄菓子屋や露店などで販売されていたマンガ本)として発行された本作は、それまでのマンガと違った映画的な躍動感にあふれた内容で、当時の少年たちに「絵が動いている!」と衝撃を与え、40万部とも云われるベストセラーとなりました。
浦沢さんはこう解説します。「『新寶島』は、日本のマンガ文化に、強烈な一撃を与えたんです。藤子不二雄Ⓐさん、藤子・F・不二雄さん、石ノ森章太郎さん、赤塚不二夫さんら、後に〈トキワ荘〉に集まる人たちは、この一冊で完全に人生が変えられてしまったんですね。当時の日本のマンガ少年たちに投じた〈ビッグバン〉だったわけです」
手塚先生は、1962年にアニメーション制作スタジオ・虫プロダクションを発足させます。
同年、実験的な短編作品『ある街角の物語』を制作。続いて1963年に放送開始となる日本初の連続TVアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作します。
それまでのアニメーション映画と違い、低予算・少人数での制作体制だったため、画面の一部分を限定的に動かすといった、リミテッドアニメーションの技法を参考に、極力作画枚数を減らして作られた『鉄腕アトム』は大ヒット。その後の日本のアニメの基本になります。
制作費の問題で、手塚先生に対する批判もありますが、浦沢さんは「ここで手塚先生が勇気をもって一歩踏み出したことによって、世界に冠たるマンガ、アニメ大国・日本ができあがっていったのだと思います」と解説します。
浦沢さんは中学1年生の時に、お兄さんから手塚先生の『火の鳥』を勧められます。
ちょうど廉価版の単行本が発売されており、「黎明編」「未来編」「鳳凰編」「復活編」を購入。
昼下がりの縁側で読み始めた浦沢さんは、その物語に引き込まれます。
「この世にこんなことを考え、絵に描き、こんなに面白く読ませてくれる人がいるのか! 恐ろしい人がこの世にいる。今まで僕が読んでいたマンガは何だったんだろう?」
と呆然とさせられ、気が付けば日が暮れていたそうです。
「その時に受けた衝撃や感動、感銘が、〈面白い〉ということの頂点として心に刻まれ、こういうことを〈北極星〉として生きていれば、間違いはない」との考えに至ったとか。浦沢さんにとってはこの日が〈成人式〉だと思っているそうです。
手塚治虫先生の〈負けず嫌い〉についての話題も出ていました。
スポコンものが大ヒットしていた頃、自分のアシスタントの机の上にあったスポコンマンガの単行本を床に叩きつけながら、「こんなもののどこが面白いのか、僕に説明してくれ!」と涙を流したというエピソードを披露。
しかしそこから、『火の鳥』の「黎明編」終盤に登場するタケルや、「鳳凰編」の我王のように、人生を生きる為の〈根性〉を描くようになったのではないか?と浦沢さんは分析します。
また、60年代に起きた劇画ブームに対抗するために、手塚先生が絵柄を変えていったことも解説。
作品の表現の為に、泣いているのか笑っているのかわからない、微妙な表情を描く境地に至ったのもこの頃。そしてこの経験が、後の『ブラックジャック』で花開くことになります。
日本のマンガ界では、70年代後半ころから大友克洋先生が注目を集めるようになります。『童夢』や『AKIRA』などの作品に、浦沢さんも「日本のマンガは全部、大友克洋になるんじゃないか?」と思うほど衝撃を受けたそうです。そして手塚先生もまた、大友作品から影響を受けていたことが語られました。
手塚先生は大友作品を虫メガネで観察し、大友先生が影響を受けたフランスのバンドデシネ(フランス、ベルギーなどにおけるマンガのこと)作家・メビウスについても研究。その特徴的な陰影の処理線を「メビウス線」と名付け、自分の作品にも導入しています。
また手塚先生は、大友作品に見られる服などのシワの描きかたにも注目しており、自分の作品にも取り入れていたことも紹介。これらの表現については、手塚先生の遺作の1つでもある『ネオ・ファウスト』などの作品で見ることができます。
「負けず嫌いの人間が、元々の自分のスタイルを全部壊してでも、世の中の新しいものと対決していく。そこが手塚先生の凄いところです」と、浦沢さんは語ります。
手塚治虫先生と大友克洋先生という大きな波を受けた浦沢さんは、この2つを融合させようと思い至ります。
その頃、担当編集者だったのが、現在マンガ原作者として活躍している長崎尚志さん。
以降何度も浦沢さんとタッグを組み、『MASTERキートン』(注1)、『MONSTER』、『20世紀少年』、『BILLY BAT』(注2)などで、プロットやストーリーの共同制作も務めています。
長崎さんはその昔、手塚先生の担当編集者でもあったそうです。そのことについてのエピソードも披露されます。
ある日、浦沢さんは長崎さんに誘われ、とあるマンガ家の集まるパーティーへ出席。そこには憧れの手塚先生の姿もありました。挨拶しようと近づいたところ、隣に立つ長崎さんの姿を見た手塚先生は「すぐ帰って仕事するから!」と言いながら立ち去られてしまったそうです。
残念ながら、手塚先生に会えたのはそれが最後。「あの時、言葉を交わせたらどうなってたんだろうなと妄想するんですが、交わさなくて良かったのかなとも思います」と話します。
その後、浦沢さんは『鉄腕アトム』の1エピソード「地上最大のロボット」を原作とした『PLUTO』を手がけることになります。
執筆中は常に手塚先生の存在を近くに感じ、「浦沢氏、それ違うよ」という声が聞こえてくるようだったそうです。
最後に浦沢さんは、「僕の人生は、手塚先生によって変えられました。面白いマンガ1つで、人の人生を変えてしまうことが起きるんだなって事は、僕が体験しています。僕もそんな作品を描いて、誰かのお役にたてたらいいなと思いながら、毎日仕事をしています」と話し、トークは終了となりました。
会場となった自由学園明日館の講堂では、「手塚治虫文化賞受賞作品パネル展」も開催。歴代の受賞作品のサイン入りパネル等、約40点が展示されました。
浦沢直樹先生は、1999年のマンガ大賞(『MONSTER』)と、2005年のマンガ大賞(『PLUTO』)を受賞。
手塚治虫文化賞を2度受賞しているのは、現在のところ浦沢さんのみです。
注1/『MASTERキートン』(浦沢直樹 脚本/勝鹿北星 長崎尚志 浦沢直樹)
注2/『BILLY BAT』(ストーリー共同制作/長崎尚志)
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