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手塚治虫先生を振り返るトークイベント《手塚治虫先生と練馬富士見台のあの日あの頃》レポート

2017年12月21日

『鉄腕アトム』や『火の鳥』など、数々の名作を生み出したマンガの神様・手塚治虫先生。手塚先生は1960年代から70年代に、練馬区富士見台でマンガの執筆やアニメーションの制作を行っていました。その手塚先生について当時の関係者の証言で振り返るトークイベント《手塚治虫先生と練馬富士見台のあの日あの頃》が、11月1日に練馬駅北口のCoconeriホールで開催されました。

このトークイベントは「ねりま観光センター」が主催し、練馬区独立70周年記念事業の一環として行われました。

左から岡本三司さん、黒川拓二さん、橋本一郎さん

登壇者は、作家・マンガ原作者の橋本一郎さん、「少年キング」元編集長の黒川拓二さん、「少年チャンピオン」元編集長の岡本三司さんの3人です。

橋本一郎さん

橋本一郎さんはTVアニメ『鉄腕アトム』のソノシート(通常のレコード盤よりも薄く安価だったため、レコードの代用として普及していた)を企画しミリオンセラーにした立役者。これに続く虫プロダクション(以下、虫プロ)制作TVアニメのソノシートも担当しました。その後マンガ編集者に転身し、手塚先生の『アポロの歌』(70)や『鉄の旋律』(74)などを担当しています。

朝日ソノラマ社でソノシートを担当していた橋本さんは、1963年に放送が始まったTVアニメ『鉄腕アトム』の主題歌がまだ製品化されていない事を知り、虫プロにソノシート制作を提案しに行きます。これが手塚先生との出会いだったそうです。ソノシートの話は大歓迎され、1963年末に発売されることになりました。

橋本さんは「手塚先生にソノシートのジャケットイラストを頼んでいたのですが、締め切りに間に合わなかったんです。でも発売日は決まっている。大急ぎで『鉄腕アトム』のアニメのバンクシステムのセルを使ってジャケットを作りました」と、裏話を披露。無事発売されたソノシートは、累計120万枚という大ヒットを記録し、この後も『W3(ワンダースリー)』、『悟空の大冒険』、『ジャングル大帝』といった作品のソノシートを作ることになります。

こうして手塚先生と仕事を続けるうちに、自分もマンガの仕事をやりたくなり、少年画報社に入社。1970年に『アポロの歌』を担当しました。

当時の手塚先生は数本の連載を同時に抱えており、3班体制でマンガを描いていました(のちに4班体制になる)。そのため編集者が待機する部屋があり、原稿を待つ編集者がひしめき合っていたそうです。

黒川拓二さん

続いてお話しされた黒川拓二さんは1966年に少年画報社へ入社。「少年キング」で1968年の4月から12月まで連載された『ノーマン』で、初めて手塚先生の担当になりました。その後、『紙の砦』(74)、『すきっ腹のブルース』(75)なども担当されたそうです。

「『ノーマン』のタイトルは、読者から募集したんです。1000通くらい応募があって、中学生の女子の案が採用されました」と、黒川さんは当時を振り返ります。その頃、虫プロの劇場用アニメ『千夜一夜物語』の制作も重なっており、「クレイジーな生活が続いていた」とも語ります。

手塚先生の仕事で印象的だったこととして、タイトルロゴを挙げる黒川さん。通常、タイトルロゴは編集部がいれる事が多かった中、原稿にタイトルロゴまで描きいれていたのは手塚先生だけだったそうで、作品への強いこだわりを感じたそうです。

「修羅場を一緒に経験したけれど、手塚先生と同じ時間を共有できたのは嬉しかったですね。出来ることなら、また一緒に仕事がしたいと思います」と、当時を懐かしんでいました。

岡本三司さん

黒川さんと対照的なのが岡本三司さん。

岡本さんは秋田書店の「冒険王」に連載された1969年の『どろろ』を担当。続いて1973年には少年チャンピオンで『ブラック・ジャック』の初代担当者を務めました。

『どろろ』で初めて手塚先生の担当になった岡本さんは、当時を振り返り「十数人の編集者が同じ部屋に詰めて原稿を待っているような環境。毎回が修羅場で体力が必要な仕事でしたね。もうあんな仕事はやりたくない(笑)」と話します。ただ、『どろろ』で修羅場を経験したおかげで、どんな作品を担当しても怖くなくなったそうです。

『どろろ』の連載が終わり「安心していた」という岡本さん。ところが『ブラック・ジャック』の担当編集者として再び手塚先生の元へ赴くことになります。

当時の手塚先生は、経営の悪化から虫プロが倒産。残ったのは借金だけという状態でした。

誰もが「手塚は終わった」と思っていた時に、手塚先生にオファーを出したのが、「少年チャンピオン」の編集長・壁村耐三氏でした。岡本さんによると、手塚先生を尊敬していた壁村氏は「最後に手塚に描かせたい。死に水を取ってやろうじゃないか」と会社を説得。しかし、だれも担当につこうという人はおらず、「数回ならば」と岡本さんが引き受けることになったそうです。

新連載の初回は、新人でもカラーが常識だった時代でしたが、『ブラック・ジャック』は白黒ページでスタート。編集部としても、ずいぶん扱いを下げての連載でした。当初はアンケートも芳しくなく、連載を続けるかどうかを考えていという岡本さん。ですがある時、「手塚先生がどうしても借金先に行かなくてはならなくなり、原稿を落とした。仕方がないので以前の原稿を再掲載したら、編集部へのクレームの電話が鳴りやまなかったんです。『続きを見せろ』『新しいエピソードはどうしたんだ』と。これで人気を確信しましたね」と話します。

「『ブラック・ジャック』で手塚先生の底力が現れたんだと思います。手塚先生と壁村氏の執念が合体して生まれた作品。これがなかったら(手塚先生のマンガ家人生は)終わっていたかもしれません」と、その想いを語りました。

参加者からの質疑時間も設けられました。

「手塚先生くらいになると、仕事を選んでもっとゆっくりしたペースで描けていたのでは?」との質問が挙がると、橋本さんが「(手塚先生は)描きたかったんですね。とにかく描いて1番でいたかったんです」と即答。岡本さんも「手塚先生は原稿料を上げてくれって言わないんです。上げて仕事が無くなる方が怖い。それほどマンガが描きたかったんです」と続けました。

『ブラック・ジャック』について、資料や取材はどうしていたのか?という質問も。

岡本さんは、資料については「先生に頼まれて医学書を神田の古書街まで買いに行ったことがある。専門的すぎて普通の書店には置いてなかったんです」と明かし、取材については、「寝る時間もないのに、作品の中には明らかに取材をしている描写があるんです。編集者の知らない所で、絶対に行っていたと思います」と話します。

橋本さんも、「あれだけ仕事をしているのに、いつの間にか話題の映画を観ていたりするんです。超人的ですし、最新の知識や話題を常に吸収し続けている人でした」と、当時の思い出を語りました。

トークイベント《手塚治虫先生と練馬富士見台のあの日あの頃》は、手塚治虫先生をよく知る編集者から、当時についての生の証言が聞ける貴重な機会でした。

またこのようなイベントが行われる際には、本サイトでもお知らせします。

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