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アニメーター 山下恭子さん インタビュー

はじめに

本企画は、アニメ史研究家・原口正宏さんが、元・東映動画アニメーターの山下(旧姓:中谷)恭子さんに当時の様子を伺ったインタビューです。山下さんは、日本最初の長編カラー劇場アニメ『白蛇伝』にも参加されており、お話は、日本の商業アニメーション黎明期の制作現場の置かれた環境や、当時のスタッフの様子を知る貴重な証言です。
本企画ではまず、本論である山下さんへのインタビューの価値をご理解いただくため、【序章】を設定し、取材者である原口さんの研究と取材への考えをお話しいただきました。
序章を先にご覧いただく事で、第一章から第七章の山下さんのインタビューをより深くお楽しみいただくことができます。

【山下恭子さん取材】
2019年6月23日(日)
由布院倶楽部(大分県由布市湯布院町)にて取材
取材者/原口正宏、道原しょう子
採録協力/藤田美穂

第四章 『白蛇伝』の頃 ~同僚の女性アニメーターたちの思い出~

  • --当時の山下さんからご覧になって、すごく印象に残ったアニメーターはいらっしゃますか。
  • 山下 長沼(寿美子)(注25)さんがすごい絵を描く、というのを噂で聞いていました。それから、後に虫プロに行った中村和子(注26)さん、そして大塚(康生)(注27)さんですよね。群を抜いてたのは、その3人かなあ。
  • --『白蛇伝』の時点で、女性アニメーターは山下(当時・中谷)さんを含めて15名います。大塚康生さんの著書「作画汗まみれ」の中に掲載されている同作の作画班体制図を見ると、その中でセカンドだったのは唯一、中村和子さんだけでした。やはり、それだけ実力が抜きん出ていたのかな、と想像するんですが。
  • 山下 ええ、彼女の上手さは、とにかく見ればすぐ判るものでした。
  • --長沼寿美子さんに関しては、『白蛇伝』をやっているときに実際に動画の線をご覧になったんですか。
  • 山下 はい。『白蛇伝』だったか、その次の作品だったか、袖がぱーっときれいに翻るのを。私は細かい仕事のほうに回されてましたから、「ほら見てごらん」って森さんに見せてもらったことがあったんです。本当にきれいで、すごいなあと思って見た憶えがあります。線がきれいっていうか、のびやかな線という感じで。
  • --じゃあ原画の人がすごく荒い感じで描いても、長沼さんを通過すると線自体がきれいに生き生きとして。
  • 山下 よく中割りだったら簡単だ、と誤解してみなさんが仰るんだけど、実はそれが一番面倒だったんです。何故かというと、原画の絵と絵の間で1ミリしか差がないところに、さらに何枚入れるかで動きの時間を表現するんですよ。だから例えば、『白蛇伝』『安寿と厨子王丸』(注28)、『太陽の王子 ホルスの大冒険』(注29)のヒルダ(注30)なんかは、動画用紙を重ねてみた時に、中割りをした線がグラデーションになって見えるようなレベルでないといけなかったんです。これはキツかったですよ。そしてそれを、またトレースで引き写すわけですから、本当に正確な線が求められる。だから森さんは「これは長沼さんに」って、自分の原画を動画に回す時によく指名していました。
  • --ちなみに、奥山(玲子)さんとは『白蛇伝』の時から親しくされていたんですか。
  • 山下 いつ友達になったか憶えてないんですよ。気がついたら友達だった。
  • --奥山さんは、女性だからという待遇の格差をはねのけるように、実力でセカンドになり原画になり、と自ら努力をして登っていったイメージがあります。中村和子さんとかはまた違うタイプだったんですか。
  • 山下 違いますね。中村さんは、何か持って生まれた才能があって、やりたいようにやっていた感じがします。あまり、女性の権利が……ということを主張するタイプではなかったと思います。
  • --奥山さんは、負けず嫌いということが強くあったりしたんですか。女性だからといって「舐められまい」とするような感覚が強かったんでしょうか。
  • 山下 あんなの舐める人いませんよ(笑)。突っ張ってましたよ。例えば『なつぞら』(注31)では、お洒落も借り着でやってるけど、実際の奥山さんは、あんなお洒落の仕方じゃなかった。非常にお洒落だったんだけど、なんか個性的な。例えばこの布だったら、パッと巻いてみて形を作るような、なかなかのセンスの持ち主で。彼女とよく長電話することがあったんですが、観察力が鋭かったですね。絵と同じものが感じられる。お互い1時間ぐらいおしゃべりしてるんだけど、「今、誰がああしてこうして」っていうのが非常に活写されるんですよね。
  • --ああ、絵が思い浮かんじゃう?
  • 山下 そうですね。だから彼女が亡くなったときは、「ああ、(東映)動画が遠くなったな」と思った。
  • --太宰(真知子)(注32)さんは、次の『少年猿飛佐助』では奥山さんとともにセカンドになる人お一人なんですけど、上手かったですか。
  • 山下 彼女のことは私、好きだったんですよ。イメージはシャラシャラしてて、仕事もサラサラッとやるタイプで。描くのは早かったんですよ。実力はありました。
    でも、いつも出社はのんびりで(笑)。歌ができたんですよ。フランク永井(注33)の「羽田発7時50分」っていう歌があって、あれが彼女のことを歌った替え歌になって。彼女は保谷から来てて。
  • --大泉学園の隣駅ですよね。近いじゃないですか(笑)。
  • 山下 それで、「保谷発、何時何十分」とかいう歌で。1台早く乗ればいいのにっていう、そんな歌を(笑)。あと、私たちはみんな当時、お金がないから、みんなそれなりに工夫してお洒落をしていたんです。太宰さんもそうで、いつだったか、変に足を引きずって歩いていることがあった。「革靴でいいのがあって、同じデザインだけどサイズが違う」って。
  • --右と左のサイズが違う?
  • 山下 違うのね。店のほうで半端物を組み合わせて売っていたんです。「歩きにくい!」って言うから、「それはやめた方がいいよ」とか言って。
  • --『白蛇伝』の当時は、それまでの藤浪小道具とか、藤城さんのところで働いた時とはまた全然違う環境になったと思うんですけど、2万円近く貰っていた藤浪小道具に比べれば、3分の1とか…
  • 山下 4分の1以下です。
  • --働き甲斐みたいなことでいうと、当時の『白蛇伝』の時はどうだったんですか。
  • 山下 給料はもちろん、多いほうがいいんですけどね。でも、お金のことよりも、やりたいことをやれたほうがいいでしょう。藤浪小道具の時は、明治生まれの年配の方たちに囲まれて神経をすり減らしていたから、東映動画では、同年代がいる、ということ自体が何より嬉しかったですよね。同世代の付き合いが一時少なくなってたから、もうこれは面白くて。

山下恭子(やましたきょうこ)

旧姓・中谷恭子。1935(昭和10)年12月8日、大分県速見郡北由布村(後の湯布院町、現・由布市湯布院町)に生まれる。'58年、東映動画(現・東映アニメーション)に入社。劇場作品『白蛇伝』('58年)『少年猿飛佐助』('54年)『西遊記』('60年)で動画、『安寿と厨子王丸』('61年)『アラビアンナイト シンドバッドの冒険』('62年)『わんぱく王子の大蛇退治』('63年)『ガリバーの宇宙旅行』('65年)『太陽の王子 ホルスの大冒険』('68年)などでセカンド(第二原画)を務める。'65年以降はTV作品にも参加し、『少年忍者 風のフジ丸』('65年)『ハッスルパンチ』('65年)『魔法使いサリー』('68年)などで原画を担当。社内での愛称はペコ。'72年、頚腕症候群のために現場を離れて療養。'77年7月11日に退社。'92年から湯布院町議会議員を1期務めたほか、'92年~'19年にかけては「ゆふいんこども映画祭」(第4~30回)の実行委員を長く担当した。

原口正宏(はらぐちまさひろ)

アニメーション史研究家。ライター、編集者。リスト制作委員会代表。「データ原口」の名でも知られる、アニメーションのデータ収集における第一人者。著書に「TV アニメ25年史」、「アニメージュポケットデータ2000」などがある。
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